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信長の上洛

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IMG城1琵琶湖城ブログ用 IMG地図代官をおく場所ブログ IMG紋桐ブログ用
右上赤が浅井長政 堺、大津、草津に代官をおく 義昭より拝領、五三桐
青が箕作城、赤が観音寺城
IMG紋二引き両ブログ用 IMGつくもなす2ブログ用 IMG茶入れ2ブログ用
義昭より拝領、二引両 付藻茄子の茶入れ  左が金花、右が松花の茶入れ
P1010001信長像ブログ用          P1010725日本酒信長ブログ用 P1010728信長日本酒、中身ブ
二男信雄が信長に一番似ていると言っていた宣教師の書いた信長像。
美男子である。お市も絶世の美女と言われていたので、むべなるかな。
「信長」の日本酒も美味しい!

信長上洛

 信長は岐阜城に移ったあと、いよいよ京都に上るための準備を進める。まず北近江の浅井長政にお市の方(実の妹)を嫁がせて同盟を結ぶ。都合のよいことに、越前にいた足利義昭が明智光秀を介して信長に接触してくる。信長は了承して、京都に上ることを約束する。すでに天皇からの綸旨も来ていたので、朝廷と将軍の二つの大義名分がそろった。京に上る場合には、浅井長政は同盟しているので問題ないが、南近江を支配している六角承禎(じょうてい)を説得しなければならない。説得を試みたが決裂したので、尾張、美濃、北伊勢の兵5万で六角氏の観音寺城を囲む。観音寺城は山に沿っていくつも城が築かれた難攻不落と思われた城であったが、支城の箕作(みのつくり)城を猛攻して1日で落としてしまったので六角承禎は恐れをなして伊勢の方に逃れた。これで京都への道が確保できたので、足利義昭と共に上洛した。京都に着くと、足利義昭は喜びのあまり信長を義父と呼ぶほどであった。朝廷に奏上して足利義昭は晴れて室町幕府の15代将軍になった。足利義昭は、褒美として副将軍にしようとか摂津・泉等を望みのまま与えようかと言ったが信長はすべて断った。副将軍になれば義昭の家来にならないといけないし、摂津をもらってもすでに他人の支配地であり意味がない。義昭も困り果て、桐の紋と二引両の紋を押しつけたが、信長は紋だけはちゃっかり頂いた。それと堺と大津と草津に代官を置くことを言って認められた。堺は堺商人が、大津・草津は近江商人が活躍し富の蓄積地であり、また大津・草津は上洛の途中にあり重要な地域である。経済に明るい信長の発想である。後に、堺には2万貫の矢銭(軍資金)を課すようになる。

 信長が上洛すると、たくさんの武将や芸術家が挨拶に訪れた。松永久秀は秘蔵の天下の名器の茶入れ「付藻茄子(つくもなす)」を献上して大和一国の斬りとりをゆるされている。連歌師の紹巴(じょうは)が扇子を二本台にのせて献上した時に

二本(日本)手に入る今日の悦び。」

と発句をつくって脇句をうながした。とっさのことなので周りがビックリしたようであるが、信長は苦もなく

舞いあそぶ千代万代(ちよよろずよ)の扇にて

とつけた。このやりとりはたちまち京中に広がった。信長のイメージが風雅の武将に一変した。もともと父の信秀の時代から京都の公家や文化人を招いてお謡いや蹴鞠なども習っていたようである。お茶は誰に習ったかわからないが、のちに名器狩りをするくらいだから相当好きだったようである。信長が好きで大々的に行い現在までに残っている日本文化は、お茶や相撲である。信長は軍事面だけでなく、色々な面に才能がある天才であったと思われる。

 


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Category: 歴史

織田信長 桶狭間の戦い

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IMG桶狭間1ブログ用 熱田神宮門ブログ用 熱田神宮本殿2ブログ用
合戦図、「合戦の実相」より引用 熱田神宮の門  熱田神宮本殿
桶狭間古戦場1公園ブログ用 桶狭間古戦場説明板3ブログ 桶狭間古戦場説明板ブログ用
桶狭間古戦場       反対側から見たところ   説明板
桶狭間古戦場説明板拡大ブロ   熱田神宮信長塀ブログ用
   進軍ルート                     熱田神宮の信長塀

織田信長 桶狭間の戦い

桶狭間の戦いは、「今川義元が京都に上洛しようとして25千(兵数には諸説あり)の兵で途中の織田信長を滅ぼそうとした戦いで、それに対して信長が迂回をして桶狭間にいる義元に奇襲攻撃を仕掛け義元の首を取った」という認識が一般的でした。しかし最近の研究では上洛と奇襲はどちらも否定されてきています。まず上洛に関しては仮に織田信長を滅ぼしても、京都まで上洛するには斎藤、浅井、六角を倒さなければならないし、補給線も延びて常識的に不可能です。奇襲に関して、信長に関して最も信頼できる資料「信長公記」には奇襲のような記載はなく、正面攻撃で桶狭間山に駆けのぼり義元を倒したように記載されています。桶狭間の戦いは、信長領にある今川方の城である鳴海城、大高城に対して信長が鳴海城には丹下砦・善照寺砦・中島砦を大高城には丸根砦・鷲津砦を築き二つの城を孤立させてしまったので、第一義的には両城を救援するためで、二義的には動員兵力の多さ(25000程度いろいろ説あり)から尾張を併合しようと考えていたかもしれません

 1560518日今川軍が尾張領に侵入した。その夜の軍議で、重臣たちは籠城を主張したが信長は何も話さず世間話をして家臣には帰って眠れと言ったようである。信長は籠城の気は無く防諜のためだったが、家臣は「織田家の命運もこれまでか。運の末には智恵の鏡も曇るというが」と思ったそうである。

信長は少し仮眠をして、幸若舞『敦盛』の一節「人生50年下天のうちをくらぶれば、夢幻の如くなり」を舞い、具足をつけ「立ちながら御食をまいり」馬上の人となる。3里の道を駆けて熱田神宮で兵が集まるのを待つ。兵が集まって、兵と共に本殿に進み戦勝祈願を行う。そのとき、1羽の白鷺が飛び去った。信長は「見ろ。あれは熱田の神の使いである。もはや勝ち戦疑いなし」と叫んだ!兵士たちは、信じて勇気百倍であった。当然、前もって信長が仕組んでいたのだろうが。

 信長は、戦いの始まるずっと前から梁田政綱に命じて特務機関を編成し情報連絡網を作っていた。熱田神宮を出て丹下砦に行く頃には鷲津砦と丸根砦は今川軍によって陥落させられ大高城にも松平元康(のちの徳川家康)が入城した。今川軍は連戦連勝である。信長は急いで善照寺砦に進んで中島砦まで行く途中で「今川義元は桶狭間の手前、田楽狭間で昼食中」との最新情報が梁田政綱よりもたらされた。義元本体(5000程度)を狙うべく、中島砦から全軍(2000程度)で義元本隊に迂回せずにまっすぐ出撃した。今川軍は広範囲に分散して戦っているので本隊の前の前衛部隊は薄くなり決死の織田軍に押され、山際まで後退した。この時、目も開けられないほどの暴風雨が今川軍に向かって斜めに吹き荒れた。木も倒れんばかりだったようである。雨が止むのを待って信長軍は魚鱗の陣形になって義元本隊に向けて駆けあがった。義元本隊は連戦連勝の知らせを受けて油断していたので不意を突かれ陣形も乱れ逃げ出した、義元も旗本に守られながら退却した。それを見て「あれを追え」と信長が下知し、まっ先に槍をくりだしたのは服部小平太、一瞬早く義元の刀が膝口を薙ぎ払う。しかしほとんど同時にとびこんだ毛利新介が一太刀浴びせ、つづく二の太刀で義元の頸をうち落とした。義元享年42歳、信長は27歳であった。この勝利により、信長の名前は周辺諸国に鳴り響いた。この大勝利のお礼に、信長は熱田神宮に「信長塀」を寄進した。

 戦いの後の論功行賞では、当時の常識では義元の頸を取った毛利新介が一番手柄になるはずであったが、信長が発表したのは皆の予想を裏切り「今川義元は桶狭間の手前、田楽狭間で昼食中」を注進した梁田政綱であった。この「情報を重視する」信長の考え方こそが、今回の大勝利の最大の要因である。

 

 

 










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織田信長 Ⅰ

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津島神社3ブログ用 熱田神宮-(2)ブログ用 熱田神宮本殿2ブログ用
津島神社           熱田神宮         熱田神宮本殿
image[1] 皇大神宮(内宮)神楽殿ブログ 万松寺1ブログ用
伊勢神宮     伊勢神宮内宮神楽殿         万松寺

清州城1ブログ用 清州城から下を見る3ブログ IMG旗ブログ用1

現在の清州城 、 清州城からの眺め(左が新幹線、右が高速)永楽通寶の旗印
信長の清州城には、まだこのような立派な天守閣は無かったが!

織田信長の生い立ち  
 
織田信貞→信秀→信長
          お市→茶々
             初
             江
          

濃尾平野の写真
IMG濃尾平野2_NEW濃尾平野拡

   伊勢神宮(ピンク)  熱田神宮(黄色) 津島神社(赤)

 織田信長は、織田信秀の嫡男として尾張那古野に生まれた。那古野は京都にも近く、信長は良い所に生まれたものである。信長と違って武田信玄は清和源氏の家柄の良い武将であるが、天下を取ろうと思えば山奥から山を越えて出てこなければならない。補給線が伸びすぎてとても天下をとることは不可能である。信秀は古渡に城を築いてそちらに移り、那古野城(名古屋城の二の丸付近にあった)に信長を残して城主にさせ帝王教育を受けさせた。守り役は平手政秀である。

日本は島国で平野が少なく、北海道を除いて1番広い平野は関東平野で2番目が濃尾平野であるが、関東平野はまだ開発が不十分で、当時で最も豊かな農業地帯だったのは濃尾平野である。そのど真ん中に位置するのが那古野(現在の名古屋)であり、同じ市内には熱田神宮、近くには伊勢神宮があり穀倉地帯であると同時に物や人の流れの中心であった。当時たくさんの商品を運ぶ場合は船が用いられ、津島や熱田の港に多くの船が出入りしていたようである。信長の祖父の信貞(信定)が経済に明るく商家から妻をめとり津島の近くの勝幡に居城を築き津島を掌握することに成功した。そして船に関税をかけて、莫大な収入を得た。その子の信秀も津島や熱田の港の富を独占して、また人望もあったので尾張の実力者になっていった。しかし、信秀は流行り病にかかり若くして41歳で亡くなった。その葬儀は、僧侶を600人も集めて万松寺で盛大に行われた。読経が終わった時、信長は袴も穿かずに茶筅という髷を作らない髪型で、長柄の太刀と脇差を腰に縄で結わえつけ、袴も穿かずにやってきた。仏前に進んだ信長は、仏に向かって抹香を投げつけた。多くの人は唖然としてやっぱり「大うつけ」かと思ったようであるが、それを見ていた筑紫の僧は「あれこそ国は、持つ人である」と言ったそうである。その予言通り、尾張を統一して守護の斯波氏が住んでいた清洲城に移った。信長も信秀を見て、経済力なくしては戦にも勝つことはできないと知っていた。戦いの時に立てる幡に永楽通寶を使うこの経済感覚こそ信長の先進性であり、楽市楽座に繋がっていく。     続  

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