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着物道楽者のブログです
桶狭間の戦いの後、松平元康(後に徳川家康に改名)と同盟を結び、この同盟は信長が死ぬまで破られることは無かった。この時信長28歳、家康は20歳、裏切りが当たり前の時代において、両雄ともお互いの偉大さを認識していたのかもしれない。後顧の憂いが無くなった信長は西に向かって美濃攻めを開始するがなかなかうまくいかない。斎籐義龍も一流の武将で、しかも美濃3人衆の安藤守就・稲葉一鉄・氏家卜全がガッチリ脇を固めていたのでさすがの信長も攻めあぐんでいた。そこで信長は居城を清洲城から美濃に近い小牧山に城を築いてそちらに移る。「一生懸命」は、元々は「一所懸命」で武士が主君から貰った土地を守るために戦場では命を懸けて戦うことからきている。那古野城→清洲城→小牧山→安土城(まだ後になるが)と次々と城を変えるのは信長だけである。武士にとっては土地が命の時代にあって、次々と必要な場所に移る柔軟な考え方で先進性が垣間見える。城を移した効果があらわれ内通者が出るようになった。有名な秀吉の「墨俣一夜城」で稲葉山城ののど元に匕首(あいくち)を突き付けたので、永禄10年には稲葉山城も落城した。桶狭間の戦いから7年の歳月を要した。
信長は、井の口という地名の変更を菩提寺である万承寺の沢彦
Category: 織田信長