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博多山笠と着物

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P1000160櫛田神社本殿ブログ P1000149千代流れ表1番ブログ P1000144.jpg  
櫛田神社本殿   今年の1番山笠千代流    羽織袴 

 P1000159櫛田神社表ブログ用 P1000153走る山笠七福神ブロ P1000163子供山笠競争ブログ 
櫛田神社の飾り山 走る山笠   境内の清道での子供山笠の競争
P1000180子供山笠川端通りを P10001974番大黒流れブログ P1000201.jpg
川端商店街を走る子供山笠 4番大黒流    6番中洲流 、独眼竜政宗
P1000205.jpg P10002108番上川端流れブロ P1000217.jpg 
7番西流      8番上川端通、走る飾り山笠 鎮めの能

博多山笠

博多山笠は、飾り山と最後の日に行われる追い山くらいしか知りませんでしたが、今回調べてみると色々な行事が行われているのを知りました。山笠は

『博多祇園山笠の起源には諸説がある。櫛田神社の社伝によると、祭神の一つ祇園大神(素盞嗚命)を勧請したのが天慶四(941)年。すでに都(京都)では現在の祇園祭につながる御霊会が行われており、勧請間もなく始まったという説。また、文献的初見である「九州軍記」に基づいて永享四(1432)年起源説もある。諸説がある中で、博多祇園山笠振興会は一般に広く知られている聖一国師が仁治二(1241)年、疫病除去のため施餓鬼棚に乗って祈祷水(甘露水)をまいたのが始まりという説を取っている。当時は神仏混淆の時代。これが災厄除去の祇園信仰と結びついて山笠神事として発展したというのだ。この1241年を起源として、2011年の本年は丁度770回目の記念すべき開催となる。時代は鎌倉、室町から戦国時代。博多の町は大陸貿易の基地として栄え、それが故に戦国大名、豪族の争奪の場となって焼け野が原と化した。その復興を命じたのが豊臣秀吉で、「太閤町割り」「博多町割り」と呼ばれる。その間、博多山笠も隆盛、衰退を繰り返したに違いない。山笠は、古くは高さ15メートル前後のものをゆっくりと舁いていたが、「櫛田社鑑」によると、貞享四(1687)年正月、竪町(恵比須流)に嫁いだ土居町(土居流)の花嫁が、花婿ともども里帰りしたところ、土居町の若者が余興として花婿に桶をかぶせるなどしたため、竪町の若者が怒って押しかけて一触即発に。この場は何とか収まったが、夏のお祭りの際、恨みが残っていた恵比須流が昼飯を食べていた土居流を追い越そうと走り出し、土居流も負けてはならじと走り、これが評判を呼び、「追い山」に発展したという。明治維新後も何度かの危機を乗り越えて現在の博多祇園山笠がある。

飾り山笠は、71日から15日の午前0時まで福博の町、14ヶ所で公開される。櫛田神社に向いた面を「表」とし、その裏側を「見送り」と呼ぶ。それぞれ 博多人形師による絢爛豪華な人形が飾られ、「表」には武者物、「見送り」には童話やテレビアニメが題材になることが多い。以前は高さが156メートルあった山笠を舁いていたが、明治時代に電気の普及による電線の敷設のために実際に動く「舁き山笠」と展示用の「飾り山笠」に分化した。現在の「飾り山笠」は10メートル前後の高さである。
現在は上川端通の飾り山笠のみが「走る飾り山笠」として追い山ならしや追い山で「櫛田入り」を奉納している。』
だそうです。

今回は追い山が日曜日だったので、ものすごい人出でした。15日午前4時59分。太鼓の合図に1番山笠・千代流れが櫛田神社の境内に入って「博多祝い唄」を歌い上げ、その後5分毎に他の流れも須崎町まで全コース5キロを走り抜けます。最も速かったのは東流れで29分2秒です。その後、櫛田神社の境内で鎮めの能が行われました。やっぱり山笠を一番楽しんでいるのは、観光客ではなく当事者達のようです。

 今回の着物は5月28日の着物に絽の袴を穿きました。羽織袴は日本男子を最もカッコよくまた上品に見せてくれます。

 

 

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Category: 博多山笠

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