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比叡山延暦寺と坂本

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P1010069庭園登りブログ用 P1010071茶室1ブログ用 P1010073茶室2説明板ブログ用
旧竹林院の庭       茶室 1             「天の川」説明板
P1010079茶室2ブログ用 P1010075茶室2内部ブログ用 P1010080日吉大社門ブログ用
天の川、名前も洒落ている!  「天の川」内部       日吉神社門
P1010082日吉大社?ブログ用 P1010091光秀石像ブログ用  P1010089穴内衆石積みブログ
日吉神社          明智光秀石像    右の石垣が穴太積み

比叡山延暦寺と坂本

 開山の昔から坂本は、比叡山延暦寺の門前町として栄えてきました。坂本には京都の表の鬼門を守り続けた日吉神社もあります。風流な庭園である旧竹林院は、延暦寺僧侶の隠居所で京都に近いだけ洗練された庭園です。自分が気に入ったのが「天の川」と言われる茶室です。日本の三名園のようにだだっ広くなく、小さい庭園の中に藁ぶき屋根の小さい茶室は最高です。また坂本は延暦寺の補給基地ともなっており、補給を担当した公人屋敷も残っています。

比叡山は京都の鬼門にあたるので、聖武天皇が最澄に命じて比叡山に延暦寺を開山させました。天皇の命による勅願寺のため菊の紋章を使う事を許されています。しかし、やがて仏門の身でありながら徐々に政治に介入し、神輿を担いで強訴を行うようになります。絶大な権力を持っていた白河法王をして「意のままにならぬものは、賀茂の流れ、双六の賽、山法師」と嘆かせたようです。勅願寺ゆえに誰も文句を言えず、信長の時代には、僧侶が坂本へ下りてきて「山門山下の僧衆、王城の鎮守たりといえども、行躰・行法(仏道修行の方法)、出家にも拘わらず、天下の嘲弄をも恥じず、天道のおそれも顧みず、淫乱(酒、色にふけって乱れること)、魚鳥服用せしめ、金銀まいないにふけっている」のような堕落した状態になっていたようです。比叡山は京都を護るためには戦略的に重要な位置にあるのと仏門が政治に介入するため、信長は焼き討ちを行いました。上人高僧であろうが、美女児童であろうが首をはねたようです。比叡山に美女がいること自体がおかしいのです。比叡山延暦寺は焼き討ちをされてリセットし、本来の宗教の姿に戻ったのでかえって良かったのではないでしょうか。 

 信長は焼き討ちの後、明智光秀に坂本城を築かせて京都の東の護りとしました。坂本には穴太積みの石垣がたくさん見られます。この積み方ができるようになったので天守閣を造れるような広い平坦な平面が作れるようになり、信長が初めて安土山(約190メートル)に地上6階(石垣を含めると約56メートル)の天守閣を造りました。琵琶湖の周りには、長浜城、坂本城、安土城が築かれ、京都の東の護りは完璧になりました。後世坂本城址だけは、安土の周りの埋め立てのため琵琶湖の水位が上がり水の下に埋まったようです。やはり謀反人は、日の目が 見られないのでしょうか? 

 琵琶湖拡大       P1010093琵琶湖坂本城ブログ
黄色が坂本城、ピンクが安土城、赤が長浜城  水面下に坂本城の石垣がある。

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Category: 比叡山延暦寺

比叡山延暦寺

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P1010095ケーブルカーブログ P1010100ケーブルカ―すれ違 P1010104琵琶湖と坂本ブログ
ケーブルカー  ここで上りと下りがすれ違う 比叡山から見た琵琶湖と坂本
P101010説明板ブログ用 2top根本中堂ブログ用 ei20s不滅の法灯ブログ用 
東塔、西塔、横川の3塔に分かれる、 根本中堂  不滅の宝塔   
P1010112大講堂ブログ用 P1010115.jpg P1010119.jpg P1010121阿弥陀堂ブログ用
大講堂           平和の鐘      左が東塔右が阿弥陀堂  阿弥陀菩薩
ykS3qc写経ブログ用  P1010123.jpg image1_1345529610本堂法要ブ
写経             精進料理         薬師如来と読経

比叡山延暦寺

織田信長を巡る旅の一環として、比叡山延暦寺に行ってきました。京都からJR湖西線に乗って大津市坂本まで行き、坂本で昼食をとりました。昼食の時、比叡山に登れば飲酒がダメかもしれないので生ビールと冷酒を多めに飲みました。ふらふらしながら、日本一長い全長2025メートル所要時間11分のケーブルカーで延暦寺まで登りました。あいにく天候が曇りで琵琶湖と坂本の町が、綺麗には見えなかったので残念です。天気が良ければ絶景だそうです。ケーブルカーは窓を大きくとったヨーロッパ調のデザインで、一瞬スイスに来たのかと勘違いするくらいお洒落でした。頂上の駅について、まず今日の宿泊場所の延暦寺会館に行きました。幸いお盆で宿泊者が少なかったのか、本間の10畳くらいの広い部屋に一人で泊まりました。ただ布団の上げ下ろしは自分でしないといけませんが。荷物を置いて着物に着替えて、会館から登って下って世界遺産である根本中堂に行きました。中のお堂は素晴らしく厳粛な気持ちになりました。中には薬師如来が安置され、1200年間火を灯し続けた不滅の法灯が光り輝いています。ただ撮影禁止で、上の写真はホームページのものをコピーしたものです。その後、下ったので今度は急な登りで大講堂に行き、除夜の鐘で有名な平和の鐘をつきお祈りをしました。さらに登って阿弥陀堂に行きました。上り下りは疲れたので会館に帰り、1時間くらい写経をしました。写経は初めてでしたが、気持ちが集中して1週間に1回くらいすれば気持ちが落ち着くのではないかと思いました。終わっていよいよ夕食です。メニューは精進料理で、お酒はダメかと思いましたがOKとのことで日本酒を飲みました。精進料理は最初からあまり期待していなかったのですが、意外と美味しかったです。それよりも日本酒が美味しく飲みすぎました。

次の日は朝6時に起きて根本中堂に行って630分からの読経と法話を聞きました。身も清められ綺麗になって俗世間に帰ってきました。

比叡山は古代より「大山咋神(おおやまくいのかみ)」が鎮座する神山として崇められていましたが、この山を本格的に開いたのは、伝教大師最澄(でんぎょうだいしさいちょう)上人(766~822)でありました。最澄は延暦7年(788年)、薬師如来を本尊とする一乗止観院(いちじょうしかんいん)(現在の総本堂・根本中堂)を創建して比叡山を開きました。最澄が開創した比叡山は、日本の国を鎮め護る寺として朝廷から大きな期待をされ、桓武天皇時代の年号「延暦」を寺号に賜りました。最澄は鎮護国家の為には、真の指導者である「菩薩僧(ぼさつそう)」を育成しなければならないとして、比叡山に篭もって修学修行に専念する12年間の教育制度を確立し、延暦寺から多くの高僧碩徳を輩出することになりました。特に鎌倉時代以降には、浄土念仏の法然上人、親鸞聖人、良忍上人、一遍上人、真盛上人、禅では臨済宗の栄西禅師、曹洞宗の道元禅師、法華経信仰の日蓮聖人など日本仏教各宗各派の祖師方を育みましたので、比叡山は日本仏教の母山と仰がれています。比叡山延暦寺の最盛期には三千にも及ぶ寺院が甍を並べていたと伝えていますが、延暦寺が浅井・朝倉両軍をかくまったこと等が発端となり、元亀2年(1571)織田信長によって比叡山は全山焼き討ちされ、堂塔伽藍はことごとく灰燼に帰しました。その後、豊臣秀吉や徳川家の外護や慈眼(じげん)大師天海大僧正(1536~1643)の尽力により、比叡山は再興されました。
 昭和62年(1987)8月に、世界から仏教、キリスト教、イスラム教、ヒンズー教、シーク教、儒教の七大宗教の代表者が集まり、世界平和実現の為に対話と祈りを行う「世界宗教サミット-世界宗教者平和の祈りの集い-が開催され、以降8月4日に比叡山山上にて毎年開催しています。

今回の着物は絽の長着に紗の羽織をあわせています。草履での上り下りは大変です。
 

紺絽長着ブログ用 白紗羽織ブログ用  P1010110.jpg
絽の長着      紗の羽織
 

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Category: 比叡山

織田信長 桶狭間の戦い

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IMG桶狭間1ブログ用 熱田神宮門ブログ用 熱田神宮本殿2ブログ用
合戦図、「合戦の実相」より引用 熱田神宮の門  熱田神宮本殿
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桶狭間古戦場       反対側から見たところ   説明板
桶狭間古戦場説明板拡大ブロ   熱田神宮信長塀ブログ用
   進軍ルート                     熱田神宮の信長塀

織田信長 桶狭間の戦い

桶狭間の戦いは、「今川義元が京都に上洛しようとして25千(兵数には諸説あり)の兵で途中の織田信長を滅ぼそうとした戦いで、それに対して信長が迂回をして桶狭間にいる義元に奇襲攻撃を仕掛け義元の首を取った」という認識が一般的でした。しかし最近の研究では上洛と奇襲はどちらも否定されてきています。まず上洛に関しては仮に織田信長を滅ぼしても、京都まで上洛するには斎藤、浅井、六角を倒さなければならないし、補給線も延びて常識的に不可能です。奇襲に関して、信長に関して最も信頼できる資料「信長公記」には奇襲のような記載はなく、正面攻撃で桶狭間山に駆けのぼり義元を倒したように記載されています。桶狭間の戦いは、信長領にある今川方の城である鳴海城、大高城に対して信長が鳴海城には丹下砦・善照寺砦・中島砦を大高城には丸根砦・鷲津砦を築き二つの城を孤立させてしまったので、第一義的には両城を救援するためで、二義的には動員兵力の多さ(25000程度いろいろ説あり)から尾張を併合しようと考えていたかもしれません

 1560518日今川軍が尾張領に侵入した。その夜の軍議で、重臣たちは籠城を主張したが信長は何も話さず世間話をして家臣には帰って眠れと言ったようである。信長は籠城の気は無く防諜のためだったが、家臣は「織田家の命運もこれまでか。運の末には智恵の鏡も曇るというが」と思ったそうである。

信長は少し仮眠をして、幸若舞『敦盛』の一節「人生50年下天のうちをくらぶれば、夢幻の如くなり」を舞い、具足をつけ「立ちながら御食をまいり」馬上の人となる。3里の道を駆けて熱田神宮で兵が集まるのを待つ。兵が集まって、兵と共に本殿に進み戦勝祈願を行う。そのとき、1羽の白鷺が飛び去った。信長は「見ろ。あれは熱田の神の使いである。もはや勝ち戦疑いなし」と叫んだ!兵士たちは、信じて勇気百倍であった。当然、前もって信長が仕組んでいたのだろうが。

 信長は、戦いの始まるずっと前から梁田政綱に命じて特務機関を編成し情報連絡網を作っていた。熱田神宮を出て丹下砦に行く頃には鷲津砦と丸根砦は今川軍によって陥落させられ大高城にも松平元康(のちの徳川家康)が入城した。今川軍は連戦連勝である。信長は急いで善照寺砦に進んで中島砦まで行く途中で「今川義元は桶狭間の手前、田楽狭間で昼食中」との最新情報が梁田政綱よりもたらされた。義元本体(5000程度)を狙うべく、中島砦から全軍(2000程度)で義元本隊に迂回せずにまっすぐ出撃した。今川軍は広範囲に分散して戦っているので本隊の前の前衛部隊は薄くなり決死の織田軍に押され、山際まで後退した。この時、目も開けられないほどの暴風雨が今川軍に向かって斜めに吹き荒れた。木も倒れんばかりだったようである。雨が止むのを待って信長軍は魚鱗の陣形になって義元本隊に向けて駆けあがった。義元本隊は連戦連勝の知らせを受けて油断していたので不意を突かれ陣形も乱れ逃げ出した、義元も旗本に守られながら退却した。それを見て「あれを追え」と信長が下知し、まっ先に槍をくりだしたのは服部小平太、一瞬早く義元の刀が膝口を薙ぎ払う。しかしほとんど同時にとびこんだ毛利新介が一太刀浴びせ、つづく二の太刀で義元の頸をうち落とした。義元享年42歳、信長は27歳であった。この勝利により、信長の名前は周辺諸国に鳴り響いた。この大勝利のお礼に、信長は熱田神宮に「信長塀」を寄進した。

 戦いの後の論功行賞では、当時の常識では義元の頸を取った毛利新介が一番手柄になるはずであったが、信長が発表したのは皆の予想を裏切り「今川義元は桶狭間の手前、田楽狭間で昼食中」を注進した梁田政綱であった。この「情報を重視する」信長の考え方こそが、今回の大勝利の最大の要因である。

 

 

 










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Category: 歴史

名古屋城と着物

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万松寺            熱田神宮         桶狭間古戦場公園
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長篠城址          清洲城       津島神社
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岐阜城      名古屋城大天守と小天守   宵祭り
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宵祭り、着流し  天守閣前     ホテルから見た名古屋城  徳川美術館

名古屋城と着物

昨年のお盆休みと今年のお盆休みを利用して織田信長を巡る旅に行ってきました。昨年は名古屋城の横のウェスティンナゴヤキャッスルに泊まって、レンタカーを借りて信長の天下取りコースを回ってきました。1日目は万松寺→熱田神宮→桶狭間古戦場→長篠・設楽原に行きました。2日目は清洲城→津島神社→正徳寺(道三と会見した所)は無かったので、残念→岐阜城に行きました。途中お盆の混雑があり渋滞で大変でした。夜は名古屋城宵祭りに着物を着て出かけました。織田信長等に扮した「名古屋おもてなし武将隊」には会えませんでしたが、盆踊り等の色々な催しがあり、ビールを飲みながら十分に楽しめました♫♬。名古屋城のライトアップは金の鯱鉾が映えて非常に綺麗でした。ホテルからもすぐそこにライトアップされた名古屋城が見えましたので、写真を撮りました。少し傾きましたが。

3日目は朝の名古屋城と徳川美術館を見学しました。信長の那古野城は名古屋城の二の丸付近の地下に埋まっているとのことで複雑な思いがあります。家康が那古野城の後に名古屋城を築かせるくらいなので非常に重要な地域です。本丸御殿の復元工事中で予算がないのか、二の丸の茶亭は相当荒れていました。変な箱モノを作るより、文化財等をきちんと管理して欲しいものです。

 

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Category: 名古屋城

織田信長 Ⅰ

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津島神社           熱田神宮         熱田神宮本殿
image[1] 皇大神宮(内宮)神楽殿ブログ 万松寺1ブログ用
伊勢神宮     伊勢神宮内宮神楽殿         万松寺

清州城1ブログ用 清州城から下を見る3ブログ IMG旗ブログ用1

現在の清州城 、 清州城からの眺め(左が新幹線、右が高速)永楽通寶の旗印
信長の清州城には、まだこのような立派な天守閣は無かったが!

織田信長の生い立ち  
 
織田信貞→信秀→信長
          お市→茶々
             初
             江
          

濃尾平野の写真
IMG濃尾平野2_NEW濃尾平野拡

   伊勢神宮(ピンク)  熱田神宮(黄色) 津島神社(赤)

 織田信長は、織田信秀の嫡男として尾張那古野に生まれた。那古野は京都にも近く、信長は良い所に生まれたものである。信長と違って武田信玄は清和源氏の家柄の良い武将であるが、天下を取ろうと思えば山奥から山を越えて出てこなければならない。補給線が伸びすぎてとても天下をとることは不可能である。信秀は古渡に城を築いてそちらに移り、那古野城(名古屋城の二の丸付近にあった)に信長を残して城主にさせ帝王教育を受けさせた。守り役は平手政秀である。

日本は島国で平野が少なく、北海道を除いて1番広い平野は関東平野で2番目が濃尾平野であるが、関東平野はまだ開発が不十分で、当時で最も豊かな農業地帯だったのは濃尾平野である。そのど真ん中に位置するのが那古野(現在の名古屋)であり、同じ市内には熱田神宮、近くには伊勢神宮があり穀倉地帯であると同時に物や人の流れの中心であった。当時たくさんの商品を運ぶ場合は船が用いられ、津島や熱田の港に多くの船が出入りしていたようである。信長の祖父の信貞(信定)が経済に明るく商家から妻をめとり津島の近くの勝幡に居城を築き津島を掌握することに成功した。そして船に関税をかけて、莫大な収入を得た。その子の信秀も津島や熱田の港の富を独占して、また人望もあったので尾張の実力者になっていった。しかし、信秀は流行り病にかかり若くして41歳で亡くなった。その葬儀は、僧侶を600人も集めて万松寺で盛大に行われた。読経が終わった時、信長は袴も穿かずに茶筅という髷を作らない髪型で、長柄の太刀と脇差を腰に縄で結わえつけ、袴も穿かずにやってきた。仏前に進んだ信長は、仏に向かって抹香を投げつけた。多くの人は唖然としてやっぱり「大うつけ」かと思ったようであるが、それを見ていた筑紫の僧は「あれこそ国は、持つ人である」と言ったそうである。その予言通り、尾張を統一して守護の斯波氏が住んでいた清洲城に移った。信長も信秀を見て、経済力なくしては戦にも勝つことはできないと知っていた。戦いの時に立てる幡に永楽通寶を使うこの経済感覚こそ信長の先進性であり、楽市楽座に繋がっていく。     続  

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Category: 歴史

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